「頂戴ママ」
香織が第一子である女の子の光を産んでから、2年が経った。香織の育休が終わり、光は保育園に入ることになる。
光が保育園に馴染めるかどうか不安だったが、香織の心配を余所に、光はあっという間に保育園に慣れて楽しそうにしていた。
ある日、香織が光を保育園に迎えにいくと、同時期に入園した永瀬が挨拶をしてきた。
「こんばんは」
「永瀬さん、こんばんは」
「すみません、光ちゃんママ。ティッシュお持ちじゃないですか?車に忘れてしまって…」
「あ、よろしかったらこれをどうぞ」
「ありがとうございます」
香織がポケットティッシュを差し出すと、永瀬はそれを受け取って行ってしまった。
数枚抜いたら返して貰えると思っていた香織は少し驚いたが、あまり気にしていなかった。
ところが次の日、香織はまた永瀬に声をかけられたのだ。
「光ちゃんママ、こんばんは。申し訳ないんですけど、おしりふきお持ちじゃないですか?」
「ありますよ」
「いただいてもよろしいですか?」
「どうぞー」
香織がおしりふきのパックを渡すと、永瀬は会釈して丸々1パック持って行ってしまった。
その日から、香織は永瀬の行動に悩まされることになる。
永瀬はことあるごとに香織に声をかけ、色んなものを欲しがった。オムツ、ウエットティッシュ、のど飴、子どものお菓子、ヘアゴムなど、小さな物ばかりだったので、香織も断りづらかった。
香織が永瀬に対して負の感情を抱いている一方で、光と永瀬の娘である蘭は仲が良かった。
「光ちゃんママ、良かったら週末に一緒に遊びませんか?蘭、光ちゃんのことが大好きみたいで」
「そうですね。じゃあ、公園はどうですか?」
「うーん、蘭が公園あまり好きじゃなくって。ウチはアパートで狭いですし…光ちゃんのお家じゃだめですか?」
「え、ウチですか?…わかりました。」
香織は困惑したが、蘭と手を繋いでニコニコ笑っている光を見て、仕方ないかと腹をくくった。
そして迎えた週末。
永瀬親子は嬉々として香織の家にやってきた。
おままごとを楽しむ光と蘭を見ていると、永瀬がカウンターキッチンから見えている大量の野菜を指さした。
「あんなにたくさん、どうしたんですか?」
「うちの実家が農家なので、送られて来たんです」
「そうなんですね。たくさんあるなら、少しいただいてもいいですか?」
「えっ…」
「あと、光ちゃんが着なくなった服とか、お下がりがあれば貰えませんか?」
香織は思わず閉口した。
永瀬はその後も家にあるものをやたらと欲しがった。
香織は思いきって、永瀬に本音を言うことにした。
「永瀬さん、うちも人様に色んな物をお譲りできるほど裕福ではないので。今後はそういったお願い、やめて貰えませんか?」
永瀬は香織の言葉を聞くと、急に表情が曇った。そして、蘭を連れてそそくさと帰ってしまった。
次の日、保育園の保護者会で、永瀬はとんでもない爆弾を投下してきた。
「光ちゃんママに、いじめられています」
香織はあまりの衝撃に、開いた口が塞がらなかった。
「光ちゃんママは、私が困っているのに助けてくれないんです」
香織が口を挟もうとした瞬間、園長先生がにこやかに口を開いた。
「永瀬さん、たくさんの方に物を下さいとお声をかけていらっしゃるみたいですね。園児が真似をしたら困るので、園内でそういった行為は止めていただけませんか?」
永瀬の顔が一瞬にして真っ赤になった。
香織が保護者会のメンバーを見回すと、数人が拍手をしていた。
なんと、永瀬は香織だけでなく同じ園の保護者たちに物をせがんでいたようだ。
その後、永瀬が香織に話しかけてくることはなかった。しかし数ヶ月後、保育園から少し離れた場所にあるスーパーの駐車場で、女性からティッシュを貰っている永瀬を見かけた。
世の中には色々なママがいるなと学んだ香織であった。
おわり。
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